「殿堂入り」という表現

私にはジャニーズの世界を垣間見て、未だに理解できない言葉がある。

それが「担当」である。ジャニーズのファンの方は、自分が最も推す人物を「自担」と呼び、その人のファンを総称して「〇〇担」と呼んだりもする。「担当」の定義に関しては色々あると思うが、私はそう思っている。それが私は苦手だ。嫌とまではいかないが、使うと違和感があり、使うときも未だに悩む。多少重いが、そもそも私はあの人の担当と言えるほどのことをしているのか?あの人の何を知っているというのだ?といつも思うのである。私のような分際で、担当を名乗る権利はあるのか、いや、ない、と。ただ、「担当」という言葉が、家から徒歩5分で着くコンビニ並みに便利であることは知っている。「〇〇担です。」と言えば、この人は〇〇くんが好きなんだ、と分かってもらえる。だから使いたい。ファンの方々を総称するときには私も積極的に「担当」を使う。「〇〇くん担」とか。自分には使うの苦手だけど、他の方だったらしっくりくるというか、「担当」を使うのが苦手なのは自分に対してだけってところもある。でもまあ、心のどこかに違和感を抱えたまま「担当」と使うことには抵抗がある。

そんなとき、私はふと昔友人と話したことを思い出した。友人が「最近〇〇(タレント名)好きなんだよね」と話し始めた。私はその友人がずっと他のタレントのことを好きだったことを知っていたので、「△△はもう好きじゃないの?」と聞いた。すると友人はこう答えたのだ。「いや~、△△はもう好きとかそういうレベルじゃないんだよね。何というか、殿堂入りというか。〇〇はマイブームって感じなのかな。△△を好きなのは揺るがないの。」私はこれまでにない同意を示したくて固い握手を交わしたかったが怪しまれるのを恐れ耐えた。それまで私が感じていたことを友人が言葉にしてくれた。そして、それが今、当時よりも強く強く私の気持ちを支えてくれている。

 

「殿堂入り」

 

私は最近、いわゆる自担のことを、こう呼ぶ。殿堂入り〇〇くん、と。半分本気で、半分おふざけである。殿堂入り、とは一般的にどういう意味かと改めて調べてみると、多数ある中で最もピンとくる意味合いがこれである。「長時間にわたり不動の支持を得たことを称え、別格として扱うこと」そうだ。私の中で彼らは「不動の支持を」得ている。そもそもなぜ自担という表現が苦手なのかというと、他の人も好きだから、である(おや?)。私 is not 一途。なので、ある特定の人物を「担当」という言葉で縛りつけたくないというか(誰?)、いつでも浮気できるような距離感でいたいというか(人間としてどうなの?)、「担当」ってめんどくさくない?ということ(雑)。「担当」と括ることで、同じ「担当」の方たちと親交を深められると同時に、同じ「担当」の方たちとバトルになることもあるとか、ないとか。「担当」と括ることで、同じ「担当」の方たちと同じ空間に居られると同時に、違う「担当」の方との距離を感じる。そんな気がする。こんな偉そう(?)に書いているが、どれも私の話だ。同じ「担当」の方と仲良くさせてもらっている一方で、同じ「担当」の方に悪い意味の羨望を感じ、同じ「担当」の方と思いを共有する一方で、違う「担当」の方との接し方が分からず避けてしまう自分がいる。そんな経験があるからこそ、「担当」という言葉に苦手を感じてしまうのだ。殿堂入りの寛容な部分は、多少のことでは「変わらない」ということだ。殿堂入りが増えることはあっても、減ることはあまりない。「担当」が変わるとき、「担降り」「降りる」というワードが出てきたりする。私はこれも苦手だ。その人の「担当」を「降りて」別の人を「担当」にする。「担降り」はよっぽどのことがあったからだと思うのだが、他に好きな人ができて、今の「担当」とどっちかを選ばなければならない、という地点に立つことになる。それがもったいないと思うのだ。「担当」という言葉で、要らない(かどうかはそれぞれだが、)選択に迫られる。「降りる」というのも寂しいし、変な罪悪感に駆られるときがある。私にとってはネガティブなイメージが強いのだ。だが、殿堂入り、であれば、既にその地位にいる人との入れ替わりはないという考えなので、選択に悩まされることもない。ストレスフリーである。世の中には色々な分野での殿堂入りがいる。5年連続受賞で殿堂入り、功績を称え殿堂入り、○○部門、△△部門……………グループをこれに当てはめるなら、自分の中にいくつもの殿堂が存在して良いことになる。グループ内で1人を決める必要も、グループ間で1人を決める必要もなくなる。かといって、殿堂入りが揺るぐことは絶対ない、ということはない。もしよっぽどのことがあってそれが揺らぐようならば、それは「降りる」でも「辞める」でもなく「壊される」だ。殿堂が壊されたらまた殿堂を作れば良い。それに、「担当」と決めてしまうことで、「担当」以外の人が出てくる。「担当」以外の人の活動のときに、「担当じゃないけど好き」「担当じゃないけど見たい」というような、「担当じゃないけど」というのが先に立つことがある。「担当だから見なきゃ」「担当じゃないけど見たい」「担当じゃないから見ない」…苦しい…「担当」の不自由さを感じる。殿堂入りなら、少なくとも私は殿堂入りしていない人が殿堂入りしてくれることを楽しみにしているし、もう殿堂入りしているから無理に全部見なくても良いかなという謎の余裕も生まれる。だから「殿堂入りだから見る」「殿堂入りだから見ない」「殿堂入りじゃないから見る」「殿堂入りじゃないから見ない」普段からこういうことを思っている訳ではないし、言葉にすると多少違和感があるが、私はこう考えることでかなり心の負担が減った。選ばなくて良い、という寛容さ。そういった意味合いが私の言う「殿堂入り」の大部分を占める。殿堂入りは1番、1位ということではない。殿堂入りって、結局そのグループの1番じゃないか、という意見もあると思う。確かにそうなのかもしれないが、1番好き、1位、というよりかは、ずっと好き、という方が良いのかもしれない。言葉では伝わらないのだが、自分の中でふと「これは揺るがないな」と確信するときがある。どんなに他の人が気になっても結局はその人に戻ってきてしまうというか、結局またその人のことを見ている、そんな感じだ(伝わらない)。「担当」と「殿堂入り」もしかしたらどちらも同じ意味なのかもしれない。こう私が話しているところで、私もこの文章について追及されたら答えられない、そんなふわふわした考えでもあるし、私の気持ちの問題であるのだろうが、私は「殿堂入り」という表現を推したい。

 

では、私の中で殿堂入りした人は誰なのかという、他人の今朝の朝ごはんの話くらいどうでもいい話を今からする。私の中で殿堂入りした人は3人はいる。この時点で「自担」では説明しようがない構造になっている。3人いたら、じゃあその中で1番は?と聞かれるかもしれないし、それがいわゆる「自担」ということなのでは、と思うのだが、もはやそういう問題ではない。殿堂入りしてしまったら順番などそんな概念はないのだ。私のように複数のグループが好きな方や、1人を決めてしまうのが苦手な方がいたら、もはや全員を殿堂入りにしてしまえばいいのだ(投げやり)。みんな英雄、が成り立つ時代である。みんな殿堂入り、でいいだろう(雑)。

話を戻すが、殿堂入りの1人目は、キスマイの千賀くんだ。私がジャニーズに浸かったのはこの人のせいだ。でも、キスマイの中だったらガヤさんも好きだ。いつからかガヤさんを憧れの女性(おや?)と思うようになってから、ガヤさんも好きだ。今年はあわよくばガヤさんの団扇を買ってしまおうかなと思ってしまっているくらいだ。でもこの一件はあくまでも千賀くんの足元で繰り広げられていることであり、ガヤさんがどんなに騒ごうとも、きっとその位置は変わらないんだろうと思っている。

2人目は、NEWSのまっすーだ。私がジャニーズに浸かる前から好きだったのはこの人だ。でもNEWSの中だったら手越くんも好きだ。慶ちゃんも、シゲも。手越くんは最近可愛くて仕方ないし、慶ちゃんはキレイで仕方ないし、シゲは面白くて(おや?)仕方ない。今年はきっとNEWSに貢ぐことになるだろうと確信してしまっているくらいだ。でもこの一件、どこではなく三件(?)はあくまでもまっすーの足元で繰り広げられていることであり、3人がどんなに手を引いてこようとも、きっとその位置は変わらないんだろうと思っている。

そして3人目は、嵐の翔くんだ。私がジャニーズに浸かる前に初めて見たジャニーズのDVDにはこの人が出ていた。でも、嵐の中だったらニノも好きだ。毎年ニノのソロ曲を聴いて好きになりかけている。今年はあわよくば嵐のライブにもぐりこみたいと思ってしまっているくらいだ。でもこの一件はあくまでも翔くんの足元で繰り広げられていることであり、ニノがどんなに「受けて立つ!」と言ってこようとも、きっとその位置は変わらないんだろうと思う。

 

でも私は知っている。人間が生活するために築いた城壁を巨人が破って侵入してきたという漫画を(だからどうした)。だから私は感じている。いつかこの殿堂も壊されてしまう日が来るかもしれないということを。ただ、それは楽しいことである。殿堂入り以外の人たちが気になりだすと、私は「攻めてきた」と思う。そして「戦え」と思う。殿堂入りは揺るぐことのないものであることは確かだが、絶対ということはない。だから、そんな日に備えて、私はいつも「誰か」を「戦わせて」いるのだ。最近はそれが楽しみなのである。殿堂入りに新メンバーが加入したとき、もしくは、殿堂が壊されたときにまたこの手の話をすることにしよう。